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初台の歴史
幡ヶ谷台地は武蔵野台地の末端の一部で、渋谷区の北部を東西に延び、北は神田川の谷に面し南斜面は代々木川・宇田川(渋谷川の支流)に侵蝕され、千駄ヶ谷・代々木・西渋谷の台地に連なっています。代々木台地に並んで南に突き出している支丘は初台台地(標高約39m)で、この台岬(台地の先端)には代々木八幡神社があり、その境内には縄文時代の遺跡もあります。
■ 区指定遺跡・代々木八幡遺跡 ■
標高約32mにある代々木八幡宮の境内を昭和25年に調査したところ、多数の遺物とともに住居跡とその中に掘られた柱跡が発見されました。
同時に出土した加曾利E式土器から、この住居には、約4500年前の人が住んでいたと推測されます。
現在、この住居跡には、当時の古代住居を復原したものが展示されています。
■ 代々木八幡神社 ■
□■ 原始・古代・中世期 ■□
代々木八幡遺跡でわかるように、原始時代にすでにこのあたりの台地には我々の祖先が竪穴式住居をつくって住み、海で貝を拾い、山野に鳥獣を狩り、木の実や草を採って生活していました。この時期は台地の下まで海が入り込んでいました。明治神宮や代々木に古墳があったように、この時代にもこのあたりには人間の営みがあったと思われます。
さらに、後三年の役(永保3年~寛治元年1083~1087)の後、八幡太郎 義家が奥州から上洛の際にこの辺を通り、白旗を洗って傍の松にかけて乾かしたという旗洗池の伝説があり、建暦2年(1212)には代々木八幡神社が創建され、永正17年(1520)には代々木の山中から十一面観音が掘り出されたと伝えられています。
また、永正年間(1504~1520)には幡ヶ谷の荘厳寺が創建され、永禄2年(1559)「小田原衆所領役帳」に原宿・幡ヶ谷・千駄ヶ谷・下渋谷の地名がみられるなど、このあたりに生活していた人々がいたことを示しています。
□■ 近世期・江戸時代 ■□
天正18年(1590)徳川家康が江戸城に入ってからも、この辺は江戸の郊外の農村でした。
五街道の一つ、甲州街道は正しくは甲州道中と呼ばれ、日本橋を起点として日本橋通り東海道と分かれ、日比谷から半蔵門を左折して四谷・内藤新宿・代々木・幡ヶ谷を通って甲府まで道中三十四次、さらに下諏訪で中山道に合しています。宿場は内藤新宿の次が上高井戸でありますが、幡ヶ谷新町には小休場がありました。
甲州街道に並行してつくられたのが、旧玉川上水で、松平伊豆守信綱を総奉行、伊奈半十郎忠治を水道奉行として承応2年(1652)四月、庄右衛門・清右衛門兄弟によって着工され、取水口の羽村から42Kmの四谷大木戸まで掘割を作り上水を引くという大工事でした。その水路は武蔵野台地の中央分水背をたくみにたどっています。現在の新宿御苑の北東部に水番所があり、ここから石樋や木樋を地中に埋めて江戸市中に給水しました。明治3年から5年まで村々の産物を運ぶ通船が許されたこともありました。
初台という地名は、太田道灌が今の代々木八幡の地に築いた築城八ケ所の一つの砦から出た名であるといわれています。また、徳川秀忠の乳母、土井昌勝の妻柴山氏は、ここに住んでいたので初台の局といわれ、天正十九年(1591)に代々木村に二百石の地を賜りました。初台の地名は、この初台の局に由来するとも伝えられています。
江戸末期のこの地域は、渋谷や千駄ヶ谷に比べて武家地は少なかったといわれてます。幡ヶ谷村には、唐津藩の小笠原家、松江藩の松平家の抱屋敷があり、代々木村には三春藩の秋田家、高槻藩の永井家、 旗本の林家、彦野藩の井伊家、陸奥長瀞藩の米津家など、いずれも抱屋敷・下屋敷でした。
幡ヶ谷村は東西23町(約2.5km)、南北八町(約0.9km)余り、家数138戸。代々木村は東西30町(約3.3km)、南北25町(約2.7km)、家数166戸という寒村でした。
□■ 明治・大正期 ■□
明治22年町村制施行により、代々木村と幡ヶ谷村が併合して代々幡村が成立し、その後大正4年、町制が施行され代々幡町となました。その間京王電車が開通するなどして地域人口は増加の一途をたどり続けました。